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ホテル・ピースアイランド市役所に宿泊している同僚との待ち合わせの間、しばらくロビー待っていたが時間が大分あったので町の散策に出かけてみた。仕事前の楽しみの散策だ!
ホテルの隣に緑が多いところがあったのでタバコを吸うために足を踏み入れた。踏み入れたというのは草ボーボーで、何か取り残されたような場所だったからね。観光パンフレットで確認したら市役所跡というのが分かった。あの黒ずんだ高い建物は旧市役所ということか。そして草が生い茂るこの場所は昔は駐車場だったのだろうか?
草が生い茂る中に看板を見つけた。「宮古島市・マウイ群-姉妹都市50周年記念樹」という表記があり、その後ろには3メートルほどの高さのソテツが立っていた。何やら黒ずんでおり不健康そうなソテツを見ていると淋しそうだと感じたのは気のせいか?市役所の移転は済んだが、このソテツと看板はそのままほっとくのだろうか?少し切ない思いがした。当時華々しく50周年を祝ったものがこうなるのか?物だけでなく祝った人たちの心も時の流れで忘れられていくのだろうか?
気を取り直して北小学校を右に見ながら10m行くと十字路(旧郵便局前)にさしかかった。平良港への長い下り坂の通りが見えた。港の手前付近には史跡が点在しているとマップにあるのでそこに行くことにした。
坂を下りきった交差点のそばに低い展望台があり上がってみたものの港の全体は遠く、手前になぜか広い緑地帯があり、何のための展望台なのか分からなかった。階段の手すりに載っている小さいシーサーを全景に港の写真を撮った。(撮ったはずの写真画像がない!)
確か50年前に港の近くにあったホテルへ宿泊した記憶がある。そのホテルは今のような現代的なデザインではなくやけに簡素だったと覚えている。今は近くに立派なホテルがあるが、そこに変わったのだろうか?
港から50m道を戻り左側への道へ入った。すると先の方に鳥居があり、赤瓦の50年前に訪ねた拝所があった。そこは「漲水御嶽」(はりみずうたき)宮古島の創世神話や人蛇婚伝説などの舞台とされている聖地で宮古島を作った神様を祀っている拝所。宮古では御嶽には女性だけが入れるとのことだが、ここだけは男性も立ち入ることができる唯一の御嶽だとか。
「漲水御嶽」の猫ちゃん。神聖な場所だからか、周辺でうろうろしている猫ちゃんたちは真っ白で美しく神聖な雰囲気を感じさせた。思わず何枚か御嶽を背景に写真に収めた。(後日YouTubeで漲水御嶽を閲覧したら、何年も前から猫ちゃんがいたようだ。)
しばらくしたら若い女性がお参りした。その女性は鳥居の前で礼をして、神前では二礼二拍手一礼で全員参拝をしていた。たぶん本土出身の方だろうと思った。その後の中年の男性も同じように、神社をお参りするしきたりをきっちり守っていた。そこまできっちりしきたりを守っていなかった我が身の教養とマナーのなさに少し恥ずかしい思いがした。ただ、沖縄特有の宗教である御嶽でもそうやるべきかは判断がつかない。鳥居があるからそうした方が良い?
ウタキの近くに上の方に昇っていく石畳があった。入口に鳥居があったので、僕もしっかり礼をして昇っていった。この石畳は琉球王朝時代の名残だそうで、後の時代に道路拡張のため現在は三分の一が残るだけとのこと。
その石畳を上りきると「宮古神社」があった。わずかに残った背の低い桜の木を全景に神社の写真を撮影した。しばらくすると、レンタカーから6人ほどの観光客と思える人たちが降りてきて参拝に向かっていった。やっぱり日本人のしきたり通り鳥居の前で礼をし、神前では二礼二拍手一礼で全員参拝をしていた。そういう日本人のマナーというのは美しいものだと最近特に思うことだ。この神社は16世紀後半に那覇の波上宮の神々を宮古に招いたとの由来記にあるとのこと。
50年前仕事で上司、同僚らと宮古島へ渡った。僕らは当時有名だった「レストランのむら」に招待され歓待を受けたのだった。歓待の理由は、同行していた沖縄協会(復帰前は南方同胞援護会)の専務理事である吉田嗣延氏が女社長から招待され、職員の僕らもその恩恵にあずかっただけだが。当時としてはとてもりっぱで上品なレストランだったと覚えているが。残念ながら今は居酒屋に変わっていた。ただレストランのむらという看板はあったが見た目に居酒屋風情になっている。50年の間に宮古のみならずどこも、古い物は忘れられ、観光客向けに新しい店がたくさんオープンした。その流れに乗れなかったのだろう。
長い時の流れは僕のその頃の町のイメージもほとんど思い出せなかった。当時は繁華街の道は狭いと思っていたが、繁華街周辺以外の道路はどんどん拡張され車にとってはとても便利にはなったのだろう。タクシー運転手が言ってたように、「道路は広くなっていったが、もともとあった店舗や住宅は立ち退きさせられ、それによって町がつまらなくなり、人とのコミュニケーションもなくなっていった。」タクシー運転手の朴訥な語りの中に昔を愛しく思う気持ちを感じた。
前に投稿した記事「下地涼子さんは今・・・・」の下地さんのことはこの旅の間ずっと頭にあった。あれから50年が過ぎた。当時宮古で会った場所ももう完全に記憶がなく、探せるはずはなかった。タクシー運転手さんに彼女のことを尋ねてみた。案の定、知らないと言われた。当たり前の話だが。どうしているのだろう?宮古島のどこかにいるのだろうか?
仕事が終わった同僚たちは、宮古ブルーの美しい海を期待して連泊し連休を楽しむとのことだった。一方僕は一泊で帰ってしまった。いつか自転車で宮古周遊をしたいと思いながら飛行機のキャビンに乗り込んだ・・・。
正直言うと、今回の小さな宮古の旅で少し心を残してきた気がする。仕事の合間の撮影だったことと、カメラの調子が悪く満足できるものではなかったから。(また、言い訳?)